参考資料

2015年4月 1日 (水)

【資料】◎『納刀の手の内』『卵殻の手の内』と忘れられる技法

4月5日(日)の夜に開催の特別講座「甲野善紀の術理史 第16回 ─『過去の手のかたち』─」は、1997年に甲野善紀先生がテーマとしていた「“納刀の手之内”“卵殻の手之内”“雀足”」を扱います。
現在「“虎拉ぎ”“旋段の手”“角成りの手”」などの手の形が話題となったが、この頃から手の形による技の変化の研究はありました。

そのことずばりの自分の稽古レポートはないのですが、関連レポートを掲載するので講座に参加する方は参考にしてください。

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武術稽古法研究60
中島章夫
日付1997/04/30
◎『納刀の手の内』『卵殻の手の内』と忘れられる技法

 『納刀の手の内』『卵殻の手の内』がこのひと月ほどの間に現れて、甲野先生の技が新たな展開を見せているが、今のうちに「稽古法研究」に記録しておかないとその姿を消しそうな気配である。
 「姿を消す」といってもこれまで機会あるごとに書いてきたように、無くなってしまうのではなく、動きの中に吸収されて見かけの上から分かりにくくなってしまう、ということだ。恵比寿で稽古をしている人の中にも、甲野先生は稽古の説明にさりげなくこれらの用語を使うために最近の発見とは気づいていない人もいるだろう。あるいはこれらの用語自体に気がついていない人もいる可能性もある。
 そして『納刀の手の内』『卵殻の手の内』も技法の変化の中でのひとつのエピソ−ドとなっていく。
 このようにして忘れられた技法や技が武術稽古研究会には数多く存在する。表題の用語の考察と合わせて、こうしたことがなぜ起こるのかを考えてみたい。

●「どの辺が井桁術理なんですか」
 4月26日に甲野先生が講師で開かれた「賢治の学校」では、実技としては「体を割って、支点を作らない動き」が中心となった。恵比寿から参加した斉藤さん、岡田さんと私もいろいろと質問を受けたが、先生の著作を予習してきた人から「どの辺が井桁術理なんですか」と聞かれた。甲野先生の技そのものを初体験し驚いている中でこれはなかなか鋭い質問である。皆さんならどう答えるだろうか。
 井桁の初期の技では『井桁崩し』あるいは『平行四辺形の原理』がその姿からも説明がしやすい。それは壮神社から出ているビデオを見ると分かるだろう。現在の先生の技が井桁に支えられていることは間違いないが、それは文字通り「術理」として動きに吸収されてしまっている。そのため説明が難しくなるのである。
 逆に『体の割り』から接した人々が『井桁崩し』という言葉は聞いたことはあるがどういうことかはよく分からない、という事態は起こりうる。『井桁崩し』はあまりに根本的な術理であるため消えてしまうことはないだろうが、『納刀の手の内』と『卵殻の手の内』を例に検討してみよう。

●『納刀の手の内』
 『納刀の手の内』はその名の通り、甲野先生が納刀する時の刀の柄を持つ手の形を表している。柄を親指と他の四指で挟んだ形で、親指は指先方向に、四指は肘方向に順逆拮抗させる格好になる。これによって手先は肚と直結したようになり腕のなかのアソビが取れる。すると動きはじめの気配がより起こりにくくなり、動きに鋭さが増す。
 このようなことがどうして起こるのかを考えて、この手の内が持つ「働き」を取り出すことができると納刀の手の形をとらなくてもよくなる。そのひとつの例が『卵殻の手の内』である。

●『卵殻の手の内』
 『納刀の手の内』のままでは、『正面の斬り』『抜付』などの斬り系の技は出来ても、『裏鶚』などの相手の腕などを取っていく掴み系の技に応用が出来ない。そこで親指先と他の四指の指先が向き合った相手の腕を掴んだような形にし、掴んでいこうとする方向と開いていこうとする方向の力を拮抗させる『卵殻の手の内』へと展開していく。このようにすると二の腕の筋肉が肚方向へ引かれるような感じがあり、アソビが無くなっていくのがわかる。
 『卵殻の手の内』は掴み技だけではなく、『両手持ちの柾目返し』のような持たせる技にも応用できる。

●『第三の力(例の力)』との関連
 昨年の8月頃、『第三の力(例の力)』というのがあった。これは相手の腕を掴んで一定の圧力をかけていき、自分の足もとからは「相手の腕で逆上がりでもするような」感じで力を立ち上げて拮抗をとると、別方向に力が生じて相手は崩れていく。まるで見えない第三者が引っ張っているように取も受も感じるため『第三の力』と名づけられたようだ。「例の力」は、はじめに甲野先生が呼んでいた通称である。
 このことについて武術稽古法研究43「『中間重心』と『例の力』」(96/08/12)に「こうして相手の接触面に2方向の力が収斂する様子は、まるでハサミで接触面を挟み込んだようだ。ただ相手は逆方向からハサミの片方の刃が追ってくるとは認識できない。しかもその時の先生の雰囲気から感じるのは、ハサミで挟んでスパッと切ってしまうのではなく、むしろ切れないように注意深く挟んでいるような状態なのだ。ピンセットで紙をつまむのは簡単だが、よく切れるハサミで切らないように紙をつまみ上げることを想像して欲しい」と書いている。
 この感覚と『納刀および卵殻の手の内』の拮抗する感覚とは似ているのではないかと甲野先生に尋ねたところ、非常に近いということであった。身体全体で行ったものを手の内で行っているということである。この時の研究の注として「そんな人はいないと思うが、ハサミで紙をつまみ上げる技術と『例の力』の技術が同じだというわけでははないので、ハサミの稽古をしても無意味だろう。こうした例えは自分の想像力を超えてしまうような感覚を少しでも身近なものにするための方便なのである」と書いたのだが、どうもこの『卵殻の手の内』などに関しては、実際にハサミで紙を切らないようにつまんでいる手の内の感覚は例えという以上に直接的なものがある。
 つまり紙を挟む方向と紙を切らないようにハサミを開く方向との力の拮抗の感覚は直接的に『卵殻の手の内』を知るのに役立つかもしれないのだ。ただしあくまでも参考になる、ということであって感覚を養うほどのものかどうかはわからない。

●なぜ忘れ去られてしまうのか
 『納刀の手の内』『卵殻の手の内』はおそらく今日の稽古では消えていないだろうし、しばらくはその形のまま解説に使われることがあるだろうが、それでもやはり甲野先生がいつまでも「手を卵殻の手の内にして……」と説明している姿を想像できないのは私だけではないだろう。必ず術理として吸収され、見た目はさりげない手の表情になっていくはずだ。それに伴って会員からの記憶からも消えることになるだろう、前項で触れた『第三の力』がそうであったように。
 ではなぜそうなってしまうのか、を簡単に考察しよう。

1 これらは『井桁術理』という全体の中の部分的な技法だからである。
 甲野先生には意味ある技法が、基本的な武術的身体感覚および武術的身 体運動能力がそこまでいっていない者には直接役立てられないため、いつの間にか忘れ去られることになる。

2 やがて甲野先生も忘れてしまう。
 これらの技法はやがて、当然の動きとして内在化してしまうだろう。するといつの間にか甲野先生自身忘れてしまう可能性が高い。

3 会員の身体的な感覚や運動能力が育ってきても1+2により、会員自身には記憶がなく、その頃の甲野先生の関心はさらに深い術理に向かっていて、この技法を思い起こすことすら難しい。

●どうしたら思い出せるのか
 あとから行く者が『卵殻の手の内』に気づくのは、それを憶えているか、記録を繙〈ひもと〉いて見つけるか、憶えている会員から学ぶか、自ら発見するかのいずれかだろう。自ら発見するに越したことはないが、記録や人の言葉から刺激を受けてハタと思いつくのも、自らの発見なしには起こりえない。
 この中で「自ら発見する」以外は、甲野先生がその技法を提示した時にその意味を見出すことの出来た人々によって起こされることなのである。憶えているのも、記録に残すのも、その意味を漠然とでも感じていたからであり、その意味を捉えて稽古をした経験を持つ者はそれを伝えることが出来る。甲野先生は当然「その意味を捉えて稽古をした」はずだが、オリジナルであるが故に自由に加工ができてしまい、逆に客観性を持てないのである。
 この事を考えても、先生の発見の過程に(自分なりの)意味を見出した人が、なんらかの形で記録に残しておくことが後々の技の研究のために重要なことになるだろう。

以上

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2015年2月 1日 (日)

【資料】武術稽古法研究45◎「相対的浮き絶対的浮き」と順逆の方向性の同時的存在

本日2月1日(日)夜の◎特別講座「甲野善紀の術理史 第15回 ~ 重心と浮き」のテーマに関連した、1996年当時のわたしの稽古研究レポート第二弾を転載します。

武術稽古法研究45
中島章夫
日付1996/09/18

◎「相対的浮き絶対的浮き」と順逆の方向性の同時的存在

 「『中間重心』と『例の力』」(96/08/12)の中で「身体の浮き」について触れたが、この所の甲野先生の興味はもっぱら「身体の浮き」にあるようだ。この身体の浮く感覚をどのように捉えたらいいのか考えてみたい。

●魚の身を残して骨を抜く
 9月6日の恵比寿の稽古で、『正面の斬り』の初期の形を稽古していた時、「背骨から頭を通って釣竿が伸びるように、南京玉すだれのすだれがシュルシュルと伸びるみたいに」とか自分で説明をしながら、井桁術理の共同開発者の永野さんの例えを思い出した。
 井桁術理発見の初期(いわゆる「井桁ショック」の頃)に、永野さんは『正面の斬り』の説明で「魚の骨だけがズズッとヌケて身だけ残る感じ」と言っていた。その時はピンとこなかったが、今になってみるとその感覚が分かる気がする。

●上方、下方を志向する矢印
 『正面の斬り』(初期形態)の時、背骨を通って頭頂部を抜ける中心軸が軸方向に伸びるように相手に向かっ
ていくのだが、このとき上半身全体が同方向に一緒に動いてしまうとどうしても気配が多く出てしまうし、上体に意識が片寄ってしまう。そこで肩から腰にかけての部分(ここを「肩腰〈けんよう〉部」と呼ぶ)は残すような感覚で中心軸を伸ばす。
 しかし実際には中心軸だけが伸びることはなく、肩腰部もともに動いていく。それでもなお「骨だけヌケて身は残る」感覚があるとはどういうことだろうか。
  私の感じるところは中心軸が頭頂部を抜けて伸びていくのと同時に、肩腰部は逆方向に落ちている。しかも実際の肩腰部が「筋肉を緩めることで今ある処から数 ミリ落下して止まる」というのではなく「常に下方を志向する矢印が内在する状態」として肩腰部が存在するのである。これは『肩の溶かし込み』の感覚と似て いる。
同時に中心軸は「上方を志向する矢印が内在する状態」なのである。話は抽象的だが「そんな感じがしている」
という例えとして読んでほしい。

●『浮きモドキ』=「相対的浮き」
 私はこの時の中心軸の有り様が「浮き」につながる感覚ではないかと思っている。まあ、9月13日のコミニティカレッジの講座で甲野先生が、現在の先生の「浮き」の感覚は、目指す「浮き」に比べれば『浮きモドキ』
にすぎないと言っていたことを思えば、私の感覚は「浮きモドキモドキ」でしかないだろう。
  さて、ここで重要なのは、肩腰部が固定された土台となった状態で中心軸が伸びても「浮き」の感覚にはならない、浮かせる場所の周囲が(必ずしも周囲とは限 らないだろうが)逆方向に落ちていく時そうした感覚が生まれるということだ。そういう意味において甲野先生が目指す「絶対的浮き」に対して「相対的浮き= 浮きモドキ」と呼ぶのが適しているのかもしれない(本当は「浮きモドキモドキ」だが……)。
 『浮きモドキ』の感覚は決して「上方・下方」だけだ けでなく、『井桁術理』の「腕の中を割る」一例として「腕の表側は前方に、裏側は手前に力を流す」ような使い方をしたときも、腕そのものがフッと浮く感じ がする。この腕を縦にすると、そのまま『中間重心』の姿形になる。背中から腰、後方に引いた脚部の裏側を通っ
てストンと落ちるのに拮抗するように両足の中間から会陰に向かう上方の矢印が上体をやじろべいのように支える状態(『浮きモドキ』の状態)となる。

●「絶対的浮き」と空間の落下
 このように考えていくと、相対的浮きとしての『浮きモドキ』の感覚は「順逆の方向性の同時的存在」と共にあるのではないかと考えられる。今の私が考えるのもどうかと思うが、それでは「絶対的浮き」とはどのようなものなのだろうか。
  おそらく「順逆の方向性」の片方が自身の身体の外側にあるということではないか。どうしたらそんなことが可能かどうか分からないが、回りの空間が下方に落 ち続ける感覚と身体の内部の上方へ向かう感覚の同時的存在の実現をクリアしなければならないだろう。しかしこれは超常現象であり、「術理」として語れる性 格のものかどうか疑問の残ることではある。
以上

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【資料】武術稽古法研究43◎『中間重心』と『例の力』 (1996年)

本日2月1日(日)夜の◎特別講座「甲野善紀の術理史 第15回 ~ 重心と浮き」のテーマに関連した、1996年当時のわたしの稽古研究レポートを転載します。

武術稽古法研究43 
中島章夫
日付1996/08/12
◎『中間重心』と『例の力』
●『中間重心』

 8月9日の コミニティカレッジで、甲野先生から、『中間重心』からの「浮き」についての説明があった。『中間重心』については、最近よく聞くことばなのだが、イマイ チ判然としないものがあった。この日『中間重心』と「身体の浮き」が関連づけられるのを聞いて、ちょっとした手がかりを得たような気がする。
 甲 野先生の姿勢は、『中間重心』と言いながら後ろ足に重心がかかっている様に見える。しかしそれは腰の反りがないので、後ろに体重がストンと落ちて見えるた めのようだ。そしてその腰からストンと落ちた重さが、感覚的な言い方で申しわけないが、足もとから両足の間を巡って上昇し一点で腰全体を支持するのであ る。その支持する力が、体勢のさらなるまとまりで、上のほうに抜けていくと「身体の浮き」の状態になるのではないか。つまり『中間重心』は開いた両足の中 間に体重を落とすことではなく、落とされた体重が両足の中間を通って身体を下支えする立ち方だったのようである。こう気づいてみると、これまでの稽古の中 で甲野先生は何度もそうおっしゃっていたような気もする。この頃は自分の稽古のテーマに気が行って、先生の話をよく聞いていないのかもしれない。反省させ られるところだ。
●『レイの力(?)』
 『レイの力』は「霊の力」ではない。『例の力』である。もしかしたら今日(8月16日)の稽古ではちゃんとした名称があるかもしれない。コミニティカレッジの時点では発見して2日目だと言うことなので、まさか消えてしまっているということはないだろう(たぶん)。
  『例の力』は、それでも「霊の力」と勘違いしても不思議ではないような第3の力が働く技法である。特に術者から相手の手なり腕なりを取っていく掴み技に顕 著に効果があらわれるようだ。相手との接触面には誘導したい方向にわずかな圧力を加える(方向性を与える)。同時に誘導したい側にある自分の身体(足な ど)の方から寄るようにする。文章にするのは難しいが、相手を自分の足もとに崩す代わりに崩す方向にある足の方から寄ってくることで、相手は崩れた状態と 同じになるということらしい。もちろん現実の動きとして足が寄ってくるわけではない。しかし甲野先生の意識では「相手の腕で逆上がりをする」ような感覚ら しい。
 こうして相手の接触面に2方向の力が収斂する様子は、まるでハサミで接触面を挟み込んだようだ。ただ相手は逆方向からハサミの片方の刃が 追ってくるとは認識できない。しかもその時の先生の雰囲気から感じるのは、ハサミで挟んでスパッと切ってしまうのではなく、むしろ切れないように注意深く 挟んでいるような状態なのだ。ピンセットで紙をつまむのは簡単だが、よく切れるハサミで切らないように紙をつまみ上げることを想像して欲しい(*)。それ に似た、非常に集中した微妙な感覚によって2方向の力が収斂した時、『例の力』が生まれて突如相手が予期せぬ方向へ動き出してしまうようなのだ。それがま るで傍らから誰かに引っ張られるような、甲野先生の言葉を借りれば「突然車のようなものが現れてゴロゴロと横滑りしてしまう」ような感じで動いて(動かさ れて)しまう。しかも、この『例の力』は、術者の力と相手の力がひとつになった、どちらの力ともどちらが動かすとも言えないような感じらしい。それ故「霊 の力」との聞き違いも、感覚的にはあながち見当違いとは言えないのである。
●「あるまとまり」
 『例の力』に関する甲野先生の説明を聞い ていると、ひとつひとつは決して新しいことではなく、前にも聞いたことがあるなじみのある事のような気がする人もいるだろう。しかしそれが「あるまとま り」の中で働く時、質的に転換した、新しい動きとして出現する。この「あるまとまり」にこそこの術理の消息があるのであり、『中間重心』からの「身体の浮 き」の感覚がその鍵を握っているのではないかと思う。

*そんな人はいないと思うが、ハサミで紙をつまみ上げる技術と『例の力』の技術が同じだというわけでははないので、ハサミの稽古をしても無意味だろう。こうした例えは自分の想像力を超えてしまうような感覚を少しでも身近なものにするための方便なのである。
以上


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