【資料】◎『納刀の手の内』『卵殻の手の内』と忘れられる技法
4月5日(日)の夜に開催の特別講座「甲野善紀の術理史 第16回 ─『過去の手のかたち』─」は、1997年に甲野善紀先生がテーマとしていた「“納刀の手之内”“卵殻の手之内”“雀足”」を扱います。
現在「“虎拉ぎ”“旋段の手”“角成りの手”」などの手の形が話題となったが、この頃から手の形による技の変化の研究はありました。
そのことずばりの自分の稽古レポートはないのですが、関連レポートを掲載するので講座に参加する方は参考にしてください。
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武術稽古法研究60
中島章夫
日付1997/04/30
◎『納刀の手の内』『卵殻の手の内』と忘れられる技法
『納刀の手の内』『卵殻の手の内』がこのひと月ほどの間に現れて、甲野先生の技が新たな展開を見せているが、今のうちに「稽古法研究」に記録しておかないとその姿を消しそうな気配である。
「姿を消す」といってもこれまで機会あるごとに書いてきたように、無くなってしまうのではなく、動きの中に吸収されて見かけの上から分かりにくくなってしまう、ということだ。恵比寿で稽古をしている人の中にも、甲野先生は稽古の説明にさりげなくこれらの用語を使うために最近の発見とは気づいていない人もいるだろう。あるいはこれらの用語自体に気がついていない人もいる可能性もある。
そして『納刀の手の内』『卵殻の手の内』も技法の変化の中でのひとつのエピソ−ドとなっていく。
このようにして忘れられた技法や技が武術稽古研究会には数多く存在する。表題の用語の考察と合わせて、こうしたことがなぜ起こるのかを考えてみたい。
●「どの辺が井桁術理なんですか」
4月26日に甲野先生が講師で開かれた「賢治の学校」では、実技としては「体を割って、支点を作らない動き」が中心となった。恵比寿から参加した斉藤さん、岡田さんと私もいろいろと質問を受けたが、先生の著作を予習してきた人から「どの辺が井桁術理なんですか」と聞かれた。甲野先生の技そのものを初体験し驚いている中でこれはなかなか鋭い質問である。皆さんならどう答えるだろうか。
井桁の初期の技では『井桁崩し』あるいは『平行四辺形の原理』がその姿からも説明がしやすい。それは壮神社から出ているビデオを見ると分かるだろう。現在の先生の技が井桁に支えられていることは間違いないが、それは文字通り「術理」として動きに吸収されてしまっている。そのため説明が難しくなるのである。
逆に『体の割り』から接した人々が『井桁崩し』という言葉は聞いたことはあるがどういうことかはよく分からない、という事態は起こりうる。『井桁崩し』はあまりに根本的な術理であるため消えてしまうことはないだろうが、『納刀の手の内』と『卵殻の手の内』を例に検討してみよう。
●『納刀の手の内』
『納刀の手の内』はその名の通り、甲野先生が納刀する時の刀の柄を持つ手の形を表している。柄を親指と他の四指で挟んだ形で、親指は指先方向に、四指は肘方向に順逆拮抗させる格好になる。これによって手先は肚と直結したようになり腕のなかのアソビが取れる。すると動きはじめの気配がより起こりにくくなり、動きに鋭さが増す。
このようなことがどうして起こるのかを考えて、この手の内が持つ「働き」を取り出すことができると納刀の手の形をとらなくてもよくなる。そのひとつの例が『卵殻の手の内』である。
●『卵殻の手の内』
『納刀の手の内』のままでは、『正面の斬り』『抜付』などの斬り系の技は出来ても、『裏鶚』などの相手の腕などを取っていく掴み系の技に応用が出来ない。そこで親指先と他の四指の指先が向き合った相手の腕を掴んだような形にし、掴んでいこうとする方向と開いていこうとする方向の力を拮抗させる『卵殻の手の内』へと展開していく。このようにすると二の腕の筋肉が肚方向へ引かれるような感じがあり、アソビが無くなっていくのがわかる。
『卵殻の手の内』は掴み技だけではなく、『両手持ちの柾目返し』のような持たせる技にも応用できる。
●『第三の力(例の力)』との関連
昨年の8月頃、『第三の力(例の力)』というのがあった。これは相手の腕を掴んで一定の圧力をかけていき、自分の足もとからは「相手の腕で逆上がりでもするような」感じで力を立ち上げて拮抗をとると、別方向に力が生じて相手は崩れていく。まるで見えない第三者が引っ張っているように取も受も感じるため『第三の力』と名づけられたようだ。「例の力」は、はじめに甲野先生が呼んでいた通称である。
このことについて武術稽古法研究43「『中間重心』と『例の力』」(96/08/12)に「こうして相手の接触面に2方向の力が収斂する様子は、まるでハサミで接触面を挟み込んだようだ。ただ相手は逆方向からハサミの片方の刃が追ってくるとは認識できない。しかもその時の先生の雰囲気から感じるのは、ハサミで挟んでスパッと切ってしまうのではなく、むしろ切れないように注意深く挟んでいるような状態なのだ。ピンセットで紙をつまむのは簡単だが、よく切れるハサミで切らないように紙をつまみ上げることを想像して欲しい」と書いている。
この感覚と『納刀および卵殻の手の内』の拮抗する感覚とは似ているのではないかと甲野先生に尋ねたところ、非常に近いということであった。身体全体で行ったものを手の内で行っているということである。この時の研究の注として「そんな人はいないと思うが、ハサミで紙をつまみ上げる技術と『例の力』の技術が同じだというわけでははないので、ハサミの稽古をしても無意味だろう。こうした例えは自分の想像力を超えてしまうような感覚を少しでも身近なものにするための方便なのである」と書いたのだが、どうもこの『卵殻の手の内』などに関しては、実際にハサミで紙を切らないようにつまんでいる手の内の感覚は例えという以上に直接的なものがある。
つまり紙を挟む方向と紙を切らないようにハサミを開く方向との力の拮抗の感覚は直接的に『卵殻の手の内』を知るのに役立つかもしれないのだ。ただしあくまでも参考になる、ということであって感覚を養うほどのものかどうかはわからない。
●なぜ忘れ去られてしまうのか
『納刀の手の内』『卵殻の手の内』はおそらく今日の稽古では消えていないだろうし、しばらくはその形のまま解説に使われることがあるだろうが、それでもやはり甲野先生がいつまでも「手を卵殻の手の内にして……」と説明している姿を想像できないのは私だけではないだろう。必ず術理として吸収され、見た目はさりげない手の表情になっていくはずだ。それに伴って会員からの記憶からも消えることになるだろう、前項で触れた『第三の力』がそうであったように。
ではなぜそうなってしまうのか、を簡単に考察しよう。
1 これらは『井桁術理』という全体の中の部分的な技法だからである。
甲野先生には意味ある技法が、基本的な武術的身体感覚および武術的身 体運動能力がそこまでいっていない者には直接役立てられないため、いつの間にか忘れ去られることになる。
2 やがて甲野先生も忘れてしまう。
これらの技法はやがて、当然の動きとして内在化してしまうだろう。するといつの間にか甲野先生自身忘れてしまう可能性が高い。
3 会員の身体的な感覚や運動能力が育ってきても1+2により、会員自身には記憶がなく、その頃の甲野先生の関心はさらに深い術理に向かっていて、この技法を思い起こすことすら難しい。
●どうしたら思い出せるのか
あとから行く者が『卵殻の手の内』に気づくのは、それを憶えているか、記録を繙〈ひもと〉いて見つけるか、憶えている会員から学ぶか、自ら発見するかのいずれかだろう。自ら発見するに越したことはないが、記録や人の言葉から刺激を受けてハタと思いつくのも、自らの発見なしには起こりえない。
この中で「自ら発見する」以外は、甲野先生がその技法を提示した時にその意味を見出すことの出来た人々によって起こされることなのである。憶えているのも、記録に残すのも、その意味を漠然とでも感じていたからであり、その意味を捉えて稽古をした経験を持つ者はそれを伝えることが出来る。甲野先生は当然「その意味を捉えて稽古をした」はずだが、オリジナルであるが故に自由に加工ができてしまい、逆に客観性を持てないのである。
この事を考えても、先生の発見の過程に(自分なりの)意味を見出した人が、なんらかの形で記録に残しておくことが後々の技の研究のために重要なことになるだろう。
以上
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